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平成12年 3月10日 父の命がこの世から消えた。
父の最期の折にも,ただの一度も足並みの揃える事の無かった家族を残して。
享年59歳 父の命を奪ったものは舌癌という病気だった。
発見した時はすでに末期で初期に行われる放射線治療も効果は望めず
延命する為に舌切除をすすめられたが,父は頑としてそれを拒み
抗癌剤と放射線治療だけを選択した。
「舌を切り、障害者になって家族の世話になりながらの人生は絶対に嫌だ」と父は言った。
私という病人を抱え,これ以上家族に負担を増やす事になるであろう自分の病気との戦いを
父なりに考えた末の決断だったと思う。
正直な所ところ私自身も白血病の末,予後不良の心筋症で入退院を繰り返す人生に
活路を見つけられずいたので,父の闘病に対する姿勢を心の何処かで手本にしたかった。
しかし,家族の重荷になりながら生きていく事を拒んだ父の決断に私の心中はとても複雑だった。
私は家族の重荷になりながらこれまで生き続けて来たのだから。
父の癌の進行は,奇跡を信じる私達の思いとは反対に医師の予測どおりの展開となった。
小線源治療という大量の放射線を集中的に使う治療を京大病院で受けたが,
半年後に首のリンパ節に転移し次はリンパ節を切除する手術を受けた。
しかし,かなりの大きさの摘出した癌を見せられた時に父の主治医は,
癌が全身に転移している可能性が極めて大きい事を告げた。
しかし気丈な父はひるむことなく,その2ヵ月後に職場復帰をし電検3種の資格を病床で猛勉強し取得した。
私の白血病が落ち着くように,父の舌癌も奇跡的な回復が望める
のでは無いかと思ったのだがその期待は裏切られた。
年が明け父は食欲が徐々に落ち始め血痰の混じる咳を頻繁にするようになり,
腰や足の痛みが強いせいか湿布を貼り大量の鎮痛剤を飲みだした。
私や母は再発の危惧を募らせた。、何度も次の外来受診を待たずに受診する事を
促したが頑として父は行こうとしなかった。
主治医の先生も次の診察までは大丈夫,検査の必要性は無い.
と言ったこともあり,
父は体の異常を感じながらも医師の診断をかたくなに信じようとした。
やはり結果を見ることは怖かったと、後で父は語った。
毎日這うように出勤しコートを羽織ることすら重いと言い,小さなカバンさえ持とうとしなくなった父は,
自宅から2〜3分程のバス停まで歩くのも2〜30分程かかるようになった。
そんな父の後姿を何時までも見つめていると父は振り向き顔をしかめ
家に入れと,手で追い払う仕草を何度もした。
父は玄関に崩れ落ちるように毎日帰宅し終に床から立てなくなり,やっと病院に行く決心をしたのだ。
しかしその翌日,母と私の介助で休日の会社に出向きやり残した仕事をまとめた。
翌日の月曜日に緊急入院した時,父の第4・5腰椎はすでに癌転移で潰れて
肺のリンパ節にも大きな転移が認められた。
咳と喀血はそこからの出血だった。この出血の原因も
当初はリンパ節切除後の縫合部からのもので、心配は無いと医師は説明していた。
父の主治医は,父が再検査が必要かどうかの問い掛けに必要ではないと答えた事を詫びた。
入院12日目の夜,時間に正確で几帳面な父が,決して外そうとしなかった腕時計を私に外してくれといい,
いつも私の身体をかばい続けた父が,足や腰を摩る私の手をなかなか止めさせようとせず
熱にうなされしばらくうわ言を言った後,大量の血を吹き上げて私の目の前で一瞬にしてこと切れた。
せっかちで気の短い父の口癖「おらあ待たんばい」その言葉の通り
母や弟が来るのも待たずに父は逝ってしまった。
発病から一年。「長くても一年です」。再発の発見を見逃した以外は,医師の予測はすべて的中した。
生涯、悲しみにも思える怒りをもち続け,家族ですら寄せ付けぬ硬い孤独の殻を持つ父に
ようやく恐れずに近づきいつまでも傍に居たいと思った時には,すでに父は病の床にあった。
父の手を離して,はぐれて迷子になった子供のように父が私の元に戻ることを信じ待ち続けたが,
父は二度と戻っては来なかった。
neko